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アフガニスタンの歴史

目次
1・アレキサンダー東征からイスラム軍の侵攻まで。
2・イスラム軍の侵攻からパシュトゥーン民族の登場まで。
3・パシュトゥーン登場から英露の介入まで。
4・英露対立によるアフガン介入からアブドゥルラフマーン即位まで。
5・アブドゥルラフマーンの統治から社会主義政権樹立まで。
6・社会主義政権誕生からムジャヒディンによる社会主義政権打倒まで。
7・再び内戦、タリバーン登場から崩壊。そしてアフガン新政権へ。 
  


1・アレクサンダーの東征からイスラム軍の侵攻まで。

   全土  西部/南部/東部/北部
BC600            ・バクトリア(今のバルフ)でゾロアスター生誕
BC330 ・アレクサンダー軍アフガニスタン侵攻
             ・アレクサンダー軍カイバル峠を越えインドへ
BC323 ・アレクサンダー死亡
BC305 ・アフガンはアレクサンダー軍将軍のセレウコス朝の支配下に
             ・ガンダーラ地方はインドマウリア朝の支配下に
BC256            ・バクトリア国セレウコス朝から独立
       ・イランでパルティア王国セレウコス朝から独立ヘラートを支配下に
             ・ガンダーラ地方をバクトリア王国が奪取
BC135          ・中央アジアの遊牧民アフガン北部に侵攻開始
BC050          ・バクトリア、クシャーン朝の支配下に

AD050  ・クシャーン朝アフガンの大部分を支配下に
       *シルクロード登場
       *カニシカ王の時代にガンダーラ美術全盛期に
224   ・イランのパルティア王国ササン朝により滅亡
       〜ササン朝、勢力拡大しつつ東征によりクシャーン朝衰退
450              ・バクトリアに北方よりエフタル進攻
             ・ガンダーラ地方もエフタルの支配下に
565   ・トルコ系のテュルクと結んだササン朝がエフタルを滅ぼす
600頃  ・アフガニスタンはササン朝の支配下に
610   ・イスラム成立
642   ・イスラム軍。ササン朝を飲み込みアフガンへ進軍           

 BC600年頃、当時大都会であったバクトリア(現バルフ)でゾロアスター教(拝火教)の開祖ゾロアスターが生まれました。
 ゾロアスターの死亡した年にぺルシャのアケメネス朝の王となるダリウスが生まれ、彼が王となるとバクトリアを含めアフガン全域を支配地とします。
 BC334年にはいると西方ではアケメネス朝の支配下にあったギリシャ諸ポリスを解放すべくマケドニアの王アレクサンダーは東征の途につき、諸ポリスをペルシャの支配より開放しつつ東へと軍を進め、ついにアケメネス朝を破り、その勢いのままBC330アフガンに侵攻してきました。
 現在のヘラートはアフガニスタンでアレクサンダーが建てた最初のギリシャ人の都市で「アーリア人のアレクサンドリア」と名付けられます。
 アレクサンダー軍はバルーチ地方へ進み、カンダハルを経て北上しカ−ブルを奪取し、さらに軍を北に向けヒンドゥークシュを越えてバクトリアに進みます。バクトリアを征服するとその地の貴族の娘、王の息子アレクサンダー4世の母となるロクサーヌと(政略?)結婚します。
 BC323齢33歳にしてアレクサンダーは死亡し、その後アレクサンダー軍の将軍セレウコスがぺルシャ世界を支配するようになります。
 アフガニスタンの地もセレウコス朝の支配下に入るのですが、BC256年バクトリアのギリシャ人支配者ディオドトスがセレウコス朝からのバクトリア独立を宣言、それと時を同じくし、東北イランではパルティア王国もセレウコス朝からの独立を宣言します。これによりアフガニスタンはバクトリアとパルティアにより分割されることになります。
 その後インド北西部までを支配下に置いたバクトリアのギリシャ人国家はBC150年頃中央アジアの遊牧民の侵攻を受け、その中の一部族のサカ族によって滅ぼされました。そのサカ族も大月氏の一部族クシャーン族のたてたクシャーン朝によって滅ぼされアフガン北部、東部はクシャーン朝により統治されます。このクシャーン朝の時代にシルクロードと呼ばれるようになる交易路が登場します。
 2世紀なかばにクシャーン朝のカニシカ王はカーブルを夏の都、現パキスタンのぺシャワールを冬の都に定め仏教を保護します。その結果このガンダーラ地方においてガンダーラ美術が花開く事になったのです。
 一方BC225年頃ぺルシャではパルティアを滅ぼしたアンダーシール1世がササン朝を建て、アフガン西部と南部はパルティアの手からササン朝へと支配者が変わる事になり、ここにアレクサンダー以降のギリシャ人によるアフガニスタンの支配は終わりを告げました。
 ササン朝がさらに勢力を拡大していく一方でクシャーン朝はササン朝に圧迫されどんどん衰退していきます。そんな中でも仏教文化が残こっていたバーミアンでは3〜4世紀の間にあの有名な石仏が彫られました。630年にはあの玄奘三蔵もこの地を訪れています。
 クシャーン朝の衰退をうけ5世紀中頃には中央アジアの遊牧民王国エフタルが南下を始めバクトリアへ侵攻し次いでカーブル、ぺシャワールなどのガンダーラ地方を支配下にいれ、その後約100年間これらの地を支配します。
 565年トルコ系のテュルクと手を結んだササン朝はエフタルを滅ぼし、その結果アムダリヤの北をテュルクが支配し、南をササン朝が支配する事になり、ササン朝によるアフガニスタンの支配が始まりました。ササン朝はアフガン北部をエフタル系の人達に、南部をクシャ−ン系の人達に統治させました。

2・イスラム軍の侵攻からパシュトゥーン民族の登場まで

  全土  西部/南部/東部/北部
610  ・イスラム教成立
630  ・玄奘三蔵アフガニスタンを訪れる
642  ・イスラム軍、ササン朝を征服、アフガニスタンへ進攻
661           ・ウマイヤ朝支配のもと、ヒンドゥーシャヒー朝カーブルを統治
   ・ウマイヤ朝の支配続く
749  ・ウマイヤ朝に変わりアッバース朝の統治下に
870      ・ニムローズを都とするサファリー朝、アフガン大部分を支配下に
900               ・ボハラのサーマン朝、バルフを支配下に
977        ・サーマン朝の配下トルコ系ガズニー朝建つ
~ 1186       〜スルタン・マフムードのもと支配地を拡大、最盛期を迎える
          ガズニー軍、サーマン朝を破り、ジハードの名のもとインドへ進軍
   ・ペルシャ文学隆盛
1040    ・ガズニー朝トルコ系セルジューク朝に破れアフガン以西を失う
1150           ・ゴール朝カーブルを陥落
1186 ・ゴール朝によりガズニー朝滅亡
1215 ・トルコ系ホラムズシャーによりゴール朝滅亡、
       以後ホラムズシャー朝の統治下に
1220 ・チンギスハーン、ホラムズシャーを破りアフガニスタンへ進軍
     〜ホラムズシャー支配下の各都市を破壊尽くし住民を虐殺
1227 ・チンギスハーン死亡、後継者争いに突入
1245        ・モンゴルの宗主権下タジク系クルト王国建つ
1275 ・マルコポーロ、アフガニスタンを訪れる
1369 ・チムール帝国、サマルカンド奪取
1405 ・チムール帝国がモンゴル帝国の西半分を統一した後チムール死亡
     〜後継者争い勃発
1409 ・チムールの四男シャールフ、サマルカンドを征服し三代目君主に
       ・シャールフ、ヘラートに都を遷す
1447      ・シャールフ死亡、再び後継者争いが
1470頃    ・チムールのひ孫スルタンフセインがへラートを統治
          〜文学、芸術などイスラム文化の絶頂期を迎える
1504            ・シャイバ−ン朝に追われバーブルがカーブルへ逃れる
1507     ・スルタンフセインの死後ウズベク系シャイバ−ン朝へラートを陥落
         〜チムール朝滅亡
1510     ・ぺルシャ系サファビー朝へラートを奪取
1526 ・バーブル、インドにムガール帝国建国
      〜以後カンダハルをめぐりサファビー朝とムガール帝国の争いが続く
1648           ・サファビー朝カンダハール奪取
1658 ・ムガール帝国に対しパシュトゥーン民族の反乱                   

 610年アラビアのメッカでムハンマドが神の啓示を受けてから、わずか32年後アラブのイスラム軍はぺルシャのササン朝を破りアフガニスタンへ侵攻しましたが、各地で激しい抵抗にあいながらも仏教施設などを破壊しまくり支配地を拡げていきました。しかしアフガニスタンでのイスラム化はなかなか進まず10世紀に入りようやくアフガンの大部分がイスラムを受容します。
 ちなみに玄宗三蔵がバーミヤンを訪れたのはイスラム軍によるアフガニスタン侵攻12年前の630年頃でした。
 870年イスラム帝国アッバース朝の干渉はあったものの、ニムローズに都を置いたサファーリー朝がアフフガニスタンの大部分を支配するようになりますが、ボハラで興ったサーマン朝のアフガニスタン北部への進攻によりバルフは陥落します。この当時、サーマン朝のボハラとサマルカンドは文学と芸術の中心としてアッバース朝のバクダッドと肩を並べる程でした。
 955年にはアフガン南部にサーマン朝のトルコ系奴隷軍人の建てたガズニー朝が興り、サーマン朝を滅ぼした後アフガン全土、イラン、北西インドを支配下に置きますが、1040年トルコ系のセルジューク朝との争いに破れアフガン以西の支配地を奪われます。その後ガズニー朝は支配下においていた、ヘラートの東部山岳地域にあったゴール朝により陥落され、1186年ガズニー朝は滅びます。そのゴール朝もインドまで勢力を拡大するも、セルジューク朝に仕えたトルコ系奴隷軍人の興したホラムズシャー朝により滅亡させられます。
 そして1220年モンゴルのチンギスハーンの西征によりホラムズシャー朝が破られ、モンゴル軍はそのままアフガニスタンへ進攻します。アフガンの地でモンゴル軍は初めてとも言える敗北を喫し、怒り心頭に達したチンギスハーンは破壊の限りを尽くし、その破壊は緑豊かだった土地も砂漠に変えてしまう程だったようです。
 1227年チンギスハーンが死ぬと後継者争いが始まり、モンゴル帝国の広大な地は幾つもに分割されてしまいます。そんななかモンゴル宗主権下のタジク系王国クルトがヘラートに興ります。その30年後にはあのマルコポーロがアフガンの地を訪れています。
 その後1369年チンギスハーンの子孫の娘を娶ったタメルランのチムール帝国がサマルカンドを征服し勢力を拡大しながら、ついにはモンゴル帝国の西半分を統一するまでに支配地を拡大します。
 1405年タメルランが死ぬと当然のように後継者争いが起こります。1409年タメルランの四男シャールフがサマルカンドを制し君主の座に即きいったん帝国をまとめると都をヘラートに遷します。このシャールフが死ぬと再び後継者争いが起こり、結果としてチムール帝国はサマルカンドとヘラートの2政権に分かれます。
 ヘラート政権ではスルタンフセインの代になると文学、芸術などイスラム文化の絶頂期に入ります。
 一方サマルカンド政権の方はウズベク系のシャイバーン朝によりサマルカンドを征服され、追われたバーブルはカーブルへ逃れます。そのシャイバーン朝はサマルカンドを落とした後スルタンフセインの死に乗じてヘラートを陥落し、ここにチムール帝国は滅亡します。
 1510年にはシャイバーン朝を破りぺルシャのサファビー朝がヘラートを制します。
 一方インドに侵攻したバーブルは1526年ムガール帝国を興します。それによりアフガニスタンは北部をウズベク系の王国に、西部のヘラート、シスターン地方をサファビー朝に、東部をムガール帝国に支配され、アフガニスタンをめぐり三つどもえの取り合いの時代に入ります。特にカンダハルの支配権を得るためにサファビー朝とムガール帝国の間で幾度も戦いが行われます。1648年にサファビー朝がカンダハルを奪取した後、ムガール帝国は再び1653年カンダハルへ軍を進めますが、サファビー朝はパシュトゥーン人のギルザイ族の助力のもとムガール軍を退けます。 
 サファビー朝のスルタンフセインはギルザイ族の働きにも拘らずグルジア人のアブドッラー・ハーンをカンダハルの統治者として任命します。このためにギルザイ族はサファビー朝に対し反感を強めていきます。

3・パシュトゥーンの登場から英露の介入まで 

  全土 西部/南部/東部/北部     
1703     ・バルーチ族、ミールサマンダール指揮のもとアブドッラーハーンを破る
       ・グルジア人ジョージ11世がカンダハルの統治者に、バルーチ軍を退ける
       ・ジョージ11世はギルザイ族ミールワイスを強敵と見なしイスファハンへ送致
1707 ・ムガール帝国のアウラングゼーブ死去
1709     ・ミールワイス指揮のもとギルザイ族カンダハルをぺルシャより奪取
1710 ・ぺルシャ軍パシュトゥーンのアブダリ族を伴いカンダハルへ進軍
1711     ・ぺルシャ軍カンダハルを包囲するも失敗
1715 ・ミールワイス死亡、弟アブドルアジズ王位継承
1717   ・アブダリ族のアブドッラーハーン、サファビー朝に反乱、ヘラート独立を宣言
       ・ミールワイスの息子ミールマフムード叔父を殺害し王位を奪取
1718 ・ギルザイ族とアブダリ族衝突、ギルザイ族の勝利
1719 ・ミールマフムード、ぺルシャへ進軍
1722 ・サファビー朝のスルタン降伏する
    〜ミールマフムード、イスファハンへ入城しサファビー朝の王位に就く
1725 ・ミールマフムード死亡、いとこのアシュラフ王位に
1726 ・ナディール、マシャドを征服
1729 ・ナディール、イスファハンへ侵攻、アシュラフ退却
     ・アブダリ族ヘラートにてナディールに対し反乱するも失敗
1730 ・アシュラフは退却中に叔父のカンダハル統治者フセインにより殺害される
1732   ・ヘラートにぺルシャ人の統治者を置く
1736 ・ナディール、アブダリ族の支援を受けカンダハルへ進軍
1738     ・カンダハル陥落
1739         ・ナディール軍カイバル峠を越えインドへ進軍
1741 ・ナディール、マシャドに都を築く
1747 ・アブダリ族、サドザイ氏族のアフマドハーンを族長に選出
    〜アブダリ族からドゥラニ族に名をかえる
    〜アフマドシャー死亡までにイラン西部からデリーまでを支配する帝国を建設
    〜パンジャブ地方を巡る9回に及ぶムガール、シーク軍との戦い
1772 ・アフマドシャー死去、息子ティムールシャー王位を継ぐ
1775 ・カーブルに遷都
     〜各地で反乱が起きる
1793 ・ティムールシャー死去、息子のザーマンシャー即位
     ・カンダハルではドゥラニ系のバラクザイ族勢力拡大
1802 ・ザーマンシャー、バラクザイ族長他を粛正したために怒りを買いバラクザイ族に
    打ち破られる
    〜ザーマンシャー、インドに逃亡イギリスの庇護下に
    〜シャーマフムードがバラクザイ族の傀儡として即位
1803 ・ティムールシャーの弟シャーシュジャー王位を奪取
1809 ・パラクザイ族によりシュジャー追放、シュジャーインドへ逃亡イギリスの庇護下に
     〜再度マフムード王位に
1818 ・バラクザイのファテハーン、マフムードを打破
    〜マフムード、へラートへ逃げヘラートの領主権をペルシャのカジャール朝に
1826 ・ファテハーンの末っ子ドーストモハンマド王を宣言
    〜ドゥラニ朝サドザイ系からバラクザイ系の王朝に  

 1703年バルーチ族による反乱でカンダハル統治者のアブドッラーハーンは殺害されてしまい、サファビー朝のスルタンフセインはすぐにバルーチ族の反乱鎮圧のため新しいカンダハル統治者としてグルジア人将軍のジョージ11世を送ります。
 この新しい統治者はバルーチ族よりも、彼の統治に対し反抗的なパシュトゥーンのギルザイ族系ホタキ族の首領ミールワイスを危険と見なし、彼を捕らえサファビー朝の都イスファハンへ送致します。しかし、ミールワイスは王スルタンフセインの信頼を得る事となり、メッカへのハッジ(巡礼)を許されるまでになります。イスファハンに戻ったミールワイスはスルタンの命を受けカンダハルに戻りますが、イスファハンに居た間にサファビー朝の衰えを感じていたミールワイスは反乱の成功を確信し、1709年ギルザイ族を率いてサファビー朝に対し蜂起します。まず憎きグルジア人とその兵を打ち破りカンダハルをペルシャの支配から開放します。それに対してスルタンフセインはキジルバシュ人とグルジア人の兵を送るとともに、当時ギルザイ族と敵対関係にあった同じパシュトゥーン人のアブダリ族の傭兵をもカンダハルへ向かわせますが、カンダハルを包囲するも結局失敗におわります。
 1715年ミールワイス死去後、跡を弟のアブドルアジズが継ぎますが、ぺルシャと手を組もうとしたためミールワイスの息子ミールマフムードにより殺害されカンダハルの支配はマフムードの手に移ります。
 1718年アブダリ族のアサドゥッラーは17世紀までアブダリ族の支配地であったカンダハルを奪取すべくマフムードと戦いますが負けた上に殺害されてしまいます。アブダリ族を破った勢いにのりマフムードはぺルシャへ向けて軍を進めます。
 1719年にケルマンをおとすと、イスファハンへ進みぺルシャ軍を打ち破り街を包囲します。6ヶ月に及ぶ包囲の後、ついに1722年4月サファビー朝の王スルタンフセインは降伏しマフムードはイスファハンへ入城します。これまでの間にペルシャ側の死者は10万人以上に上ったようです。その後スルタンフセインの娘との政略結婚を果たし若干20歳のマフムードはサファビー朝の王位に就きますが、少しずつ心を病んでいき誰も信用できなくなってきたマフムードは自分に対する反乱を恐れ、スルタンフセインの代からの官僚とその家族やキジルバシュ人の兵3000人を粛正してしまいます。日に日に酷くなるマフムードの状態に配下の人達に危機感が広がり、ついに1725年マフムードは暗殺され、次の日には彼の従兄弟のアシュラフが後継者として宣言しますが、マフムードの兄弟やスルタンフセインの親族など多くの反対にあいマフムードの身内を多数殺害します。そしてスルタンフセインをも殺害したあと1727年正式にイスファハンの統治者となります。
 その時イラン北部において徐々に勢力をつけ始めていたナディールは1726年にマシャドを征服し、1729年にはイスファハンへ進軍します。数度の戦闘の後、アシュラフのギルザイ軍を敗りイスファハンへ入城し、スルタンフセインの2歳の孫を傀儡として王位に就け事実上イスファハンの支配者となります。一方イスファハンを逃れたアシュラフはその後、敗走中に叔父のカンダハール統治者フセインにより殺害されてしまいます。
 ヘラートとファラーを統治していたアブダリ族は共通の大きな敵に立ち向かうために敵対関係にあったギルザイ族の助けを借りナディール軍に対しマシャドへ軍を進めますが敗北してしまいます。その結果ナディールはアブダリ族をホラサン地方に強制移住させる事を決めますが、後に起きるであろうギルザイ族との戦いをにらみ多くのアブダリ族の兵をナディール軍に傭兵として従軍させます。
 1736年にアブダリ族を従えナディール軍はアフガン南部の各都市を支配下に置きながらギルザイ族の本拠地カンダハルへ進み、1738年カンダハルを征服します。この時の働きによりナディールはアブダリ族のホラサン地方からのカンダハルへの帰郷を許し、代わりにギルザイ族をホラサン地方へ強制移住させます。ナディールはそのままインドへ軍を進めデリーを奪い、その後中央アジアのサマルカンド、ボハラ等を征服しマシャドに戻り都を築きました。その後暴君となってしまったナディールが暗殺されるとナディール軍に従軍していたアブダリ族の有力氏族のサドザイ家の長アフマドハーンは配下のアブダリ族の兵を引き連れてナディール軍から逃亡しカンダハルへ向かいます。
 カンダハルに戻ったアフマドハーンはロヤジルガ(部族会議)によりアブダリ族の族長に指名されます。王位を得たアフマドハーンはアフマドシャーと名乗るとともに「真珠の中の真珠」を意味するドゥリドゥラニを名乗ったためにアブダリ族はドゥラニ族と呼ばれるようになります。
 アフマドシャーは治世時にイラン西部からデリーまでを支配する帝国をきずきます。インドへは1747年の最初の進軍を皮切りに9回に及ぶインド侵攻をするのですが、1757年4回目の侵攻の頃よりシーク教徒の藩国がアムリトサルを中心に勢力を拡大していき、その後の5回の侵攻は、パンジャブ地方を巡るシーク軍との戦いに終始します。毎回アフガン軍がパンジャブから兵を引くとともにシーク軍による攻撃でパンジャブの支配権を奪われるという状況が続き、1769年最後のインド進軍のときにはパンジャブの奪取に失敗します。
 1772年にアフマドシャーが死亡するとへラートの行政長官であった息子のティムールシャーが後継者とされていたが、それに納得しなかったカンダハールにいた長兄のミルザは義父シャーワリハーンの支援を受けカンダハールで王を宣言します。しかし、ヘラートに居たティムールシャーはすぐにカンダハルへ向かい兄をインドへ追い払い、ミルザを支援したシャーワリハーンとその息子2人を処刑します。
 ドゥラニ族の9つの氏族での合議制のなかで、うまく統治して来た父王と違い、カリスマ性の無いティムールシャーは他氏族からの干渉を強くうけたために影響の受けにくいカーブルへの遷都をおこなった。またティムールシャーは自分の護衛としてシーア派のキジルバシュ人を置いたためにペルシャよりと看做されアフガン人の心は次第に彼から離れていきます。
 ティムールの治世約20年間表面上は平静を保っていたものの、各地ではパシュトゥーン各部族やタジク、ハザラなどの他部族は力をためつつあり、75年から81年の間に各地での小規模な反乱がしばしば起こりました。
 1791年失敗に終わるものの同ドゥラニ族系のモハンマドザイ族とアフリディー族のパシュトゥーンによる反乱が起きます。その2年後ティムールシャーが死に、彼の五男ザーマンシャーが跡を継いだ時には、サドザイ系のドゥラニ朝は危機に瀕していました。各地に反乱が広がりカンダハルで勢力を拡大してきたドゥラニ族系のバラクザイ族は、パインダハーンの指揮のもとザーマンシャーへの圧力を強めていき、ザーマンシャーもカーブルの支配者で居るためには逆らえない程になって来ていました。そこで危機を感じたザーマンシャーは、パインダハーンや他の部族のリーダーを多数の粛正します。
 これに怒ったバラクザイ族はパインダハーンの息子ファテハーンの指揮のもと、ヘラートの知事であった王の兄弟であるシャーマフムードを擁し、ザーマンと戦い彼を打ち破ります。破れたザーマンシャーはインドに逃れ英国の庇護下に入ります。シャーマフムードはバラクザイ族の傀儡として王位に就きますが、3年後の1803年兄弟のシュジャーミルザにより王位を奪われてしまいます。しかし、バラクザイ族はそれを認めず1809年政権を奪い返し再度傀儡としてシャーマフムードを王位に就けます。負けたシュジャーは1813年ラホールに逃れシークの王ランジッドシンに助けを求め、その後1816年イギリスの庇護下にはいります。
 シャーマフムードも結局1818年バラクザイ族にカーブルを追い出される事になりヘラートへ逃れ、ペルシャのカジャール朝によるヘラートの領主権を認めるかわりにペルシャの庇護を受けます。ここでサドザイ系によるドゥラニ朝は終わりを告げた形になります。
 サドザイ族に取って代わったバラクザイ族はファテハーンの兄弟間で主導権争いが起きますがカーブルの支配者となったパインダハーンの末っ子ドーストムハンマドが1826年に一族の同意を得てアフガンの王を宣言します。

4・英露対立によるアフガン介入からアブドゥルラフマーン即位まで

1818 ・ロシアの命を受けペルシャのカージャル朝へラートを攻撃
1819 ・シークの反乱でぺシャワールまでを奪われる
1826 ・ドーストムハンマドによりバラクザイ朝始まる
   ・ロシアがぺルシャと戦争を始め事実上のぺルシャの支配者に
1836 ・ドーストはぺシャワールに向け進軍、シーク軍よりぺシャワール奪取
1837 ・ロシアの指示でぺルシャ軍へラートを包囲、その後包囲は8ヶ月に及ぶも征服に失敗
1838 ・英軍アフガンへ進軍、第一次アフガン戦争勃発
1839.4 ・英軍カンダハル占領
    7月ガズニー陥落
    8月英軍カーブル入城。元王シャーシュジャー英の傀儡として再度王位につく
     〜ドースト、ロシアに向け逃亡しロシアに助けを求めるが得られず
1840 ・アフガンに戻り抵抗を続けたドースト、降伏しインドへ追放される
1841 ・カーブルで大規模反乱起こる。英国はアフガン撤退を決める
1842.1  インドへ撤退中の民間人を含む1万7千人のほとんどが殺害される
    8月インド新総督報復のため再度アフガン進軍するも10月撤退
1855 ・英国との間にぺシャワール条約締結
1856 ・ペルシャ、ヘラートを占領
1863 ・ドースト、息子のシェールアリハーンを後継者に選んだのち死亡
     後継者争いのため6年に及ぶ内戦に突入
1868 ・シェールアリハーン王位に
1869 ・英国との会談で次の王位に息子のアブドゥラージャンを認めさせる
1871 ・シェールアリーの長男ヤクブハーン、ヘラート征服成功
1872 ・アフガンを無視し英露はアムダリアを境界線に定める
1873 ・アブドゥラージャンを王位に就けシェールアリハーン退位
    ロシアはバダクシャーン、ワハーン両地域をアフガンへ譲渡する事を認める
1878 ・ロシアが使節団をむりやりアフガンに派遣
    〜それに対し英国は大使館設置を要求するもアフガン側はそれを無視
     アブドゥラージャン死亡
     第二次アフガン戦争勃発
1879 ・ヤクブハーン王位に
     英国との間に「ガンダマク条約」締結
    ・10月ヤクブハーン王位を放棄インドへ逃亡
1880 ・マイワンドの戦闘で英国軍敗北
    ・アブドゥルラフマーン王位に就く
    ・8月カーブルより英国軍撤退
1881 ・4月カンダハルより英国軍撤退
    ・7月アユーブハーン、ヘラートを出陣しラフマーン軍と戦闘するも敗北    

1826年王位に就いたドーストムハンマドは、まず始めにカーブルとガズニーでの支配を固め徐々に各地を平定していったが依然部族の反乱や兄弟による反抗に悩まされていました。同年南下政策を進めるロシアはぺルシャと戦争を始めぺルシャ軍を敗りぺルシャの支配地を次々と割譲させ、カジャール朝を事実上支配下に置く事に成功しました。
 ドーストムハンマドはカーブルとガズニーを平定した後も次々と各地を治めていき、元来パシュトゥーン人の支配地であったぺシャワール奪還のため1836年に息子のモハンマド・アクバルハーンを指揮官としてぺシャワールへ軍を進め奪還に成功します。ドーストはこれ以降のアフガン軍によるぺシャワールの統治を英国の助けで安定化できると考え、その旨の要請をしますが、それを受けたインド総督オークランドははっきりとした答えを返さず、使者として英軍士官バーンズを送ります。しかし、何の権限も与えられていなかったバーンズはドーストの話を聞くことしかできず、とりあえずドーストの出したぺシャワール統治を認めてもらうための英国への譲歩案をインド総督のもとに送るが完全に無視されてしまう。その結果ドーストは英国に見切りを付けロシアに歩み寄る事となります。
 また、ロシアはカジャール朝に命じヘラートへ侵攻させる一方、その間ヘラート周辺のアフガン諸部族と密約を交わさせ触手をアフガン内部へ伸ばしつつありました。そのロシアの動きに危機感を募らせた英国は、1839年4月ついにインド人傭兵を中心とした約2万人の軍をアフガン南部より進めます。7月ガズニーを落とした英軍は8月カーブルへ進軍し、ドーストはボハラへ逃れます。英国は新しい王としてインドに逃れ英の庇護下にあった元国王シャーシュジャーを傀儡として即位させました。
 英軍のカーブル駐留後、アフガン側の目立った抵抗はなかったものの徐々に各地で抵抗運動が起こり始めます。ドーストは抵抗運動の広がるアフガンへ英国との戦いに戻りましたが結局1840年英軍に降伏しインドへ追放されます。
 1841年ドーストの息子ムハンマドアクバルハーンの指揮のもとシュジャーの官邸の他英使節の建物などの攻撃が始まり、英国代表マクノートンの補佐官であったバーンズ他英軍将校は多数殺害されます。残った英軍兵や他の英国人は要塞に立てこもりますがアフガン側に包囲され兵糧攻めにあいます。結局、英代表マクノートンは英軍の撤退とシュジャーへの今後の支援打ち切りに関する条約に署名し、次の交渉時にアクバルハーンを買収しようとしたためその場で射殺されてしまいます。
 1842年1月英軍の兵とその家族およそ1万6500人はジャララバードの駐屯地に向け撤退を始めますが、その途上ギルザイ族によるゲリラ的襲撃を受け、ほとんどの人が殺害されてしました。
 その後4月にシュジャーは外敵の手助けをしたという恥をすすぐために身内に殺害されてしまいます。
 これらの結果、無能を曝してしまったインド総督オークランドは更迭され、新しく総督となったエレンボローは捕虜となった英兵の救出と報復のために1842年8月に再びアフガンに進軍し、住民の弾圧を行いますがすぐにゲリラ運動が広がり、10月には撤退していきます。
 その後インドから戻ったドーストは再び王位に返り咲き、無秩序状態であったアフガンを治めるべく各地を次々に平定していきます。ヘラートの征服を望んでいたドーストでしたが、ヘラートは依然ペルシャの庇護下にあったため軍を進める事は出来ませんでした。
 ロシアが1853年に始まったクリミア戦争に集中してる間に、1855年イギリスはドーストと『ぺシャワール条約』という友好条約が結びます。
 その翌年ペルシャはヘラートを占領し、ザーマンシャー元国王の孫モハマッドユーソフにヘラートを統治させるが、それに対し英国はペルシャとの戦闘に入ります。三ヶ月後には敗北したペルシャはヘラートおよびその周辺から手を引く事になります。
 1863年ドーストは、後継に息子のシェールアリーを選んで死亡しますが、これまで何度も起きて来たようにドーストの息子たちの間で後継者争いが起こり、6年に及ぶ内戦に突入します。シェールアリーは異母兄にいったん王位を奪われますが1969年王位を取り返します。この時、後に王となるシェールアリーの甥のアブドゥルラフマーンはロシアに逃れます。
 クリミア戦争が終わるとロシアは再び南下を始め、中央アジアの各ハーン国を支配下においていく、一方英国は1857年に始まったセポイの反乱を収めるのに忙しい中でもロシアの動きに警戒感を強めていった。
 王位に戻ったシェールアリーは英国との会談の席で次の王位に息子アブドゥラージャンを認めさせますが、それに反抗した長男のヤクブハーンは弟アユーブハーンとともに父と袂を分かちペルシャへ逃れます。
 その後、1871年ヤクブハーンはヘラート征服を成功させその後父との和解を果たしヘラートの知事を任命されます。
 1872年アフガン人を全く無視し英露間でアムダリヤをロシアとアフガニスタンの境界線とし、イランとアフガニスタンの境界線をも勝手に決めてしまいます。翌年ロシアはバダクシャン、ワハーン両地域をアフガンに譲渡する事に同意します。
 1873年アブドゥラージャンを王位に就けシェールアリは退位するも実権はにぎったままで、1874年にはヤクブハーンへの不信感から彼を投獄します。
 1878年ロシアが使節団をカーブルに無理矢理派遣した事で危機感を募らせた英国は、国王の助言者としてイギリス人のカーブルへの常駐を要求しますがアフガン側はそれを無視します。
 その年の8月に死亡したアブドゥラージャンの長い喪に服している最中に英国はアフガンに進軍して第二次アフガン戦争が始まります。シェールアリーは助けを求めロシアに向かうがロシア側はこれを無視し、失意の中シェールアリは1879年2月渡航中のロシアで病死します。父のロシア渡航中、釈放されて王の代理をしていたヤクブハーンが次の王位に即き、彼は英国との間に、英国がアフガンの外交を担いカーブルや他地域にその地の代表者として英国人を住まわせるという『ガンダマク条約』なるものに署名してしまいます。アフガン人にとって納得できようも無い条約の締結でアフガン人達の怒りが爆発します。1879年の6月に代表者として赴任して来たサー・ルイスが護衛のアフガン人兵士に殺害されたのを皮切りにカーブルで反乱が始まり、10月にはロバート将軍率いる英国軍が反乱鎮圧にカーブルへ到着しました。まさにその日にヤクブハーンは王位を放棄してインドに逃亡してしまいます。
 そのため王の居なくなったカーブルでは便宜上英国軍人ロバート将軍がカーブルの統治者となったため、パシュトゥーン各部族は共通の大敵のため一時手を結び、カーブルへなだれ込んだためにロバート将軍以下英国軍はインドへ敗走してしまいます。そのままの勢いでアフガン連合軍はガズニーを奪い返します。
 1880年2月叔父のシェールアリに対し反乱を起こして破れ、ロシアに12年も亡命していたアブドルラフマーンがロシアから武器・兵・金の援助を受け、彼の兵を連れアムダリアを渡りカーブルへ向い、その途上に北部の部族軍を取り込みながら軍を進め、7月にはチャリカールにおいて王を宣言します。英国も彼が王位に就くのを支援する事を決めます。
 一方シェールアリーの五男でヘラートに居たモハンマド・アユーブハーンの指揮のもとアユーブ軍はカンダハルへ進軍を始め、カンダハル近くのマイワンドでの英国軍との大規模な戦闘では英国軍を打ち破ります。その後の幾度かの戦いの後ロバート将軍は辛くもアユーブ軍に勝ち、アユーブハーンはヘラートに引き上げて行きます。
 英国での政権交代などの事情で1880年8月にはカーブルから、1881年4月にはカンダハルから英国軍は撤退する事になります。
 英国軍の撤退後、第二次アフガン戦争の英雄となったアユーブハーンは1881年7月ヘラートを出陣し、ラフマーン軍との対戦に向かいます。最初はアユーブ軍が優勢に戦いを進めますが、後半盛り返したラフマーン軍はアユーブ軍を下しアユーブハーンはヘラートへ退却していきます。しかし、ヘラートに帰ると留守を任せていた2人の将軍によりヘラートは分割統治されていました。もはや帰る場所もなくなり彼の軍隊も分裂してしまい、アユーブはペルシャにのがれていきますが、権力を失った彼にペルシャからの援助は受けられず、1881年にインドに向かい英国の庇護下に入り、1914年ラホールにて死亡します。

5・アブドルラフマーンの統治から社会主義政権樹立まで

1881 ・アブドゥルラフマーンはアユーブハーンを下す
    81~95年の間に敵対するパシュトゥーン各部族やハザラ、ウズベク等を制圧
1895 ・ヌーリスタン地域イスラムに改宗
1893 ・デュランドラインを承認
1901 ・痛風がもとでアブドゥルラフマーン死去
    長男ハビブッラーが跡を継ぐ
1911 ・タルズィー「セラージ・アルアフバル」創刊
1914 ・ハビブッラー、第一次世界大戦での中立を宣言
1919 ・2月狩猟旅行中ハビブッラー暗殺される
    〜三男のアマヌッラー跡を継ぐ
    ・5月第三次アフガン戦争勃発、ひと月程で終結
    ・8月「ラワールピンディー条約」調印
     〜アフガンによる外交権復活
1921 ・英国がアフガニスタン独立承認
1923 ・ホーストで政府に対する暴動
1928 ・シンワリパシュトゥーンによる反抗
    ・バッチャエサカオの反乱、カーブルへ侵攻
1929 ・1月アマヌッラー、イタリアへ亡命
    〜バッチャエサカオ、アフガンの指導権握る
    ・10月ナディルハーン、カーブル制圧
     〜11月にバチャエサカオ処刑される
1930 ・ナディルハーン、ナディルシャーとして王を宣言
1933 ・ナディルシャー暗殺
     〜息子のザヒルシャー18歳で即位
1934 ・アフガニスタン国際連盟に加盟
1936 ・米国と友好条約締結
1937 ・イラン、トルコ、イラクとの間で四カ国不可侵条約が結ばれる
1939 ・第二次世界大戦において中立を宣言
1946 ・カーブル大学創設
    ・国際連合に加盟
1953 ・王の従兄弟モハマドダウドが首相に
1955 ・ソ連より共産党政治局長と首相が公式訪問
1959 ・インドのネルー首相カーブル訪問
    ・米アイゼンハワー大統領アフガン公式訪問
1963 ・ザヒルシャー、ダウドを解任
1965 ・人民民主党が結党
1970 ・ヘクマチアル「ムスリム青年団」を結成
1973 ・「イスラム運動」指導者にラバニ選出
    ・国王イタリア滞在中、ダウドによる無血クーデター成功
     〜王制を廃止共和制に
1974 ・弾圧を逃れラバニはパキスタンヘ逃れる
1975 ・ヘクマチアル、ハリスと共に「イスラム党」を結成
1977 ・独裁制の共和国憲法を公布
    ・社会主義者の弾圧始まる
1978 ・人民民主党のタラキとカルマルを逮捕
     〜人民民主党による軍事クーデターによりダウドとその家族殺害される
    ・初の社会主義政権誕生     

 アユーブハーンを下した後もアブドゥルラフマーンは「一つの法と一つの支配のもとに一つの国家を築く」という目的に向け各地で起きた反乱を制圧しウズベキ、トルクマン、ハザラ人などの独立を宣言した地域を征服するため軍を進めます。とくにシーア派のハザラ人に対してはジハードを宣言し、制圧した後も厳しく弾圧します。またクナール地方のヌーリスタン人を制圧し、7世紀にイスラム軍侵攻後12世紀を経てヌーリスタン人はイスラムに改宗する事になります。また最大の敵と見なしていた多くのギルザイ族などを南部からヒンドゥークシュの北部に強制移住させる事で敵の勢力を分散させました。そのために移住先の部族社会のパワーバランスが崩れる事となりました。
 1872年に次いで1883年英露の協議によりアムダリアをアフガンとロシアの国境とし翌年の1884年にはアフガンとイラン間の国境が取り決められ、そして1893年東側の国境として、住民の意思など考えもせずに、パシュトゥーン人の居住地を2分するように引かれたデュランドラインなる物を定めてしまう。この厄介な線引きはその後ずっと現代まで問題の種を蒔き続ける事になります。
 アブドゥルラフマーンは晩年にはヨーロッパから医者、技術者などを招聘し、西欧の機械を取り入れ石けんやロウソクなどの工業も始めた。
 1901年晩年苦しんでいた痛風がもとでアブドゥルラフマーンが死亡すると長男のハビブッラーがアフガンの歴史では類を見ない、後継者争いの無い形(弟のナスルッラーによる不穏な動きはあったものの)で王位を継ぎました。
 父王アブドゥララフマーンは宗教指導者をうまく押さえ込んでいたが、ハビブッラ−の代になると宗教指導者はナスルッラーの後援をうけ政治に関して発言力を持ち始め、王の決定の多くに影響を及ぼしました。
 王は民族主義者マフムードベグタルズィーの強い影響を受けてアフガニスタンの近代化の過程に着手し始めます。
 この民族学者タルズィーが6歳の時に、著名な詩人であった父グラムモハンマドはアブドゥルラフマーン王の政策や政敵に対する弾圧のやり方に嫌気がさして、家族を連れダマスカスに亡命します。亡命中タルズィーは当時トルコ帝国の支配地であったダマスカスで自由主義的雰囲気の中で教育を受け、西欧やエジプトなどを見て回り6カ国語を話すようになります。1901年父が死ぬと、ハビブッラー新王の改革の方針に共感した彼はアフガンへ戻る決心をし、1903年22年間に及ぶ亡命生活の末祖国に戻ります。
 王は彼を通事局の長に置き、私的な助言者として信頼を置くようになります。
 そのころアメリカ人の技師によりアフガニスタンで初めての発電所が建てられ、王宮やカーブルの建物に電気が通じます。
 1911年王の許しを得てタルズィーは「セラージ・アルアフバル」という新聞を発刊します。この新聞でタルズィーは西欧の帝国主義やイスラム宗教指導者による変革への抵抗を激しく批判します。また彼の、ヨーロッパ諸国による政治的支配からの独立への訴えは、インドやロシア支配下の中央アジアの国々にも強い影響を与え始めます。国内の知識層もタルズィーの影響を受け民族主義へと傾倒していきます。また彼は王子の家庭教師もつとめ王子達にもかなり影響を与えていたようです。
 ハビブッラーは1914年に始まった第一次世界大戦には参戦への圧力をはねのけ中立を守ります。
 そんな中、ロシアでは1917年にロシア革命が起き、ロシア革命政府による中央アジアの諸ハーン国への侵攻でウズベク人、トルクメン人などが大量にアフガニスタンへ逃れて来ました。このときに逃れて来たトルクメン人によってアフガニスタンでの絨毯産業が始まる事となります。
 世界大戦終了の翌年、狩猟旅行中に何者かによりハビブッラー王が暗殺されます。  王の狩猟旅行中にカーブルで王の代理を務めていた三男のアマヌッラーはタルジィーの支援を受け、すぐに賃金などの改善を約束する事で軍の支持を得て王位継承を宣言しますが、ハビブッラー王の旅行に同行していた王の弟ナスルッラーもハビブッラーの他の息子たちの支持を得て王となることを宣言します。しかし、軍による支持を得られなかったため、逆に軍に捕らえられ彼の支持者共々地下牢に投獄されます。
 1921年にナスルッラーは獄死しますが他の投獄された者たちはアマヌッラーに忠誠を誓う事で釈放されます。この釈放された中に、後に王位を得るナディールハーンもいました。
 アマヌッラーは英国が世界大戦とインドの反乱鎮圧で疲弊してると考え、奪われていた外交権とデュランドラインで削ずりとられたパシュトゥーン人の土地を取り戻すべく、英軍に対しジハード宣告し、そのデュランドラインを超えインドへ進軍します。第三次アフアガン戦争の始まりまです。しかし、英軍に配備されていた戦闘機によるカーブルとジャララバードへの爆撃で度肝を抜かれたアフガン軍は交戦できる状態でなくなり、疲弊していた英国軍もまたアフガンへ攻め込む体力は無かったために、ひと月程で終戦をむかえる事になります。
 戦争で敗北を喫したアマヌッラーは、8月にラワールピンディーで開かれた和平会議で、今まで支払われていた英国からの補助金打ち切りとデュランドラインを国境として認める代わりに外交権をアフガンに帰すという条約に調印します。
 その後アフガニスタンは独自にフランス、ドイツを始め諸外国との外交関係を築き友好条約が結ばれます。
 一方国内に対しては急激な近代化政策とります。そのなかでも特に女性のブルカの廃止や女子の義務教育などは部族社会や宗教指導者にとって強い反感をつのらせるものでした。
 1928 年アマヌッラーが諸国を巡り多くの国々と友好関係を築いて戻って来ると、近代化政策をさらに押し進めたため宗教指導者や伝統的部族社会で生きる人達の王への反感は頂点に達し、各地で反乱が起こり1929年にはカーブルでも反乱が起きました。
 その混乱のなか、コヒスタン地方を支配していたタジク人のハビブッラーカラカニ(バッチャエサカオと呼ばれていた。)が兵を挙げカーブルに攻め込み、1929年1月カーブルを制圧してしまいました。そしてハビブッラーカラカニはアフガンで初めてタジク人の支配者となります。
 一方アマヌッラーは英国の用意した飛行機で逃亡しイタリアに亡命します。
 アマヌッラーの政敵で駐仏大使を務めていたナディルハーンは急ぎ帰国し、アフガン南部で兵を組織しカーブルへ軍を進めて、同年10月ハビブッラーカラカニを敗りカーブルを制圧します。ハビブッラーカラカニのタジク人によるアフガン支配は9ヶ月程で終わってしまい、彼は結局捕らえられ処刑されます。
 ナディールハーンはアマヌッラーを呼び戻す事無く、部族軍のジルガにおいて王に指名され、1930年に開かれたロヤジルガにおいても承認されて正式に王を宣言します。
 ナディルシャーはまず、アマヌッラーの急進的な改革を改め、各地での小規模な反乱を制圧しつつ翌年後半までにはヒンドゥークシュ南側の地域をほぼ平定しました。
 その後はゆっくりとした西欧的近代化政策を進め始めます。
 1933年にはナディールシャーはカーブルの学校を訪問中に暗殺されます。
 ナディルシャーの後を継いだのは若干19歳の若さのザヒル・シャーでしたが、彼が49歳になる1963年までは、彼の3人の叔父と従兄弟が首相として政治の実権を握ります。最初に首相になるのはナディルシャーの首相を務めていたモハンマドハシームですが、大臣や大使を歴任した一番若い叔父シャーマフムードが最も重要な役割を担っていました。
 1939年ドイツ軍のポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦にたいして、アフガニスタンは1940年に中立を宣言します。
 大戦後パキスタン独立時、デゥランドラインによって二分されたパシュトゥニスタン東側はパキスタンへ帰属することになったため、その地域を巡りパキスタンとの関係が悪化していきます。1949年には部族の反乱鎮圧のためパキスタン軍機が国境付近の村を爆撃したために一時国交が断絶してしまいます。海を持たないアフガニスタンはパキスタンの港におろされた物資をパキスタン国内を経由して輸送していたため、この国交断絶で物資の輸送が困難になり1950年にはソ連に援助を求め経済条約を結びました。
 その頃アフガン国内では政治的自由を求める声が高まり、議会は出版の自由を認める法律を通し、それを受けて幾つかの新聞が発行されますがどれも反政府的な物であったため多くはすぐに発刊禁止にされてしまいます。
 そんななかカーブル大学の学生による学生組合が組織されるなど知識層の多くが自由主義に傾倒していきます。そして、学生による政府批判やそれにともなう運動が高まり、1952年の選挙の前には自由主義の押さえ込みのため政府系新聞以外の新聞の発行を禁止し多くの自由主義指導者が逮捕投獄されます。
 1953年王の従兄弟サルダール・モハマッド・ダウドが首相に就任します。軍の近代化を重要視していたダウドはアメリカが軍事援助を渋ったためにソ連に接近し大規模の援助を得る事となります。
 1955年には再びパキスタンとの関係が悪化しパキスタン国内を経由しての物資の輸送が困難となり、ますますソ連の援助は重要性を増していきました。アフガニスタンとソ連の結びつきの強化に対して危機感を覚えたアメリカはまずダウド首相をアメリカに招待します。さらに1959年にはアイゼンハワー大統領がアフガンを訪問し関係改善を図り、経済援助を増加しますが軍事援助に関しては、ダウドがソ連による軍事介入を危惧しアメリカとの相互安全保障協定の調印を拒否したためアメリカは軍事援助を断ります。
 1965年にはマルクス主義者のムハンマド・タラキおバブラク・カルマルなどが中心となり「人民民主党」を結成しました。
 その一方でカーブル大学神学部教授のグラーム・ムハンマド・ニヤズィーを指導者としてイスラム主義の運動も高まります。1973年にはニヤズィーの運動を引き継いだ彼の弟子で後にムジャヒディンの指導者の一人となるブルハヌディン・ラバニが「イスラム運動」(その後「イスラム協会」と名を変える)の代表になります。他に学生リーダーの一人でグルブディン・ヘクマティアルもその頃活動を始めて「イスラム青年」を結成しました。
 王に即位した時からずっと叔父や従兄弟に実権を握られていたザヒルシャーは、ダウドの急進的な改革へ対する世論の高まりや改善しないパキスタンとの関係などを憂慮し1963年にダウドを解任し、翌年絶対君主制から立憲君主制へ移行する憲法を発布します。ザヒルシャーはダウドのソ連寄りの姿勢から西側諸国寄りへ姿勢を変え自由化を進めたため、西側からの援助も増えパキスタンとの関係も改善していきますが、国民にとってあまりにも急速な自由化であったため混乱を招く結果となってしまいます。 イスラム教指導者の反発が高まり、共産主義者の活動が活発化していきます。そんな中、ソ連は共産主義政党「人民民主党」の創設者の一人バブラク・カルマルを通して秘密裏にダウドと接触していました。
 1973年ザヒルシャーが目の治療のためイタリア滞在中にダウドは人民民主党と手を組み無血クーデターに成功します。
 ダウドはクーデター後すぐに王制を廃止し共和制をしきます。翌年モスクワを訪問した彼は多額の援助の約束を取り付けました。
 1974年にはイスラム主義者を危険視したダウドによる弾圧を逃れイスラム主義者の多くがパキスタンへ逃れます。パキスタンはアフガンの社会主義化に対抗してイスラム協会を利用してアフガニスタンで反乱を起こさせようと画策しますが、イスラム協会がパキスタンの手駒になる事を嫌い消極的な態度を取っていた中で、ヘクマティアルは彼の支持者とともにパキスタンへ接近し武器の供与を得ます。そしてヘクマティアルは「イスラム党」を作ります。この後イスラム協会とイスラム党はムジャヒディングループのの中で2大派閥となります。
 ダウドは信条的に共産主義者ではなかったため、徐々にソ連一辺倒の外交政策を改め西側との関係改善を進めます。それに不信感を増したソ連は1977年にダウドをモスクワへ招き、時のブレジネフ書記長がアフガン北部で働く西側外国人専門家などの退去を求めますがダウドはそれを拒否し会談は決裂します。
 その後ダウドは強権政治を強め軍や政府からソ連寄りの人間(マルクス主義者)の排除を始め政府批判に対し言論統制をしきます。そのため当初彼を支持していた多くの者が反感を強めていきます。「ハルク派」と「パルチャム派」に分裂していた人民民主党はソ連の圧力もありダウド政権打倒のため再統合します。
 1978年にクーデターを恐れたダウドは人民民主党員の逮捕を指示しタラキとカルマル逮捕を命じますが、この事が引き金となって人民民主党の影響が大きくなっていた軍部がクーデターを起こしKGBの指揮のもとカーブルへ攻撃を開始し、宮殿を襲いダウドとその家族を殺害しました。
 クーデター後すぐに軍事評議会が開かれハルク派のタラキが議長に就任し、クーデターの3日後に国名を「アフガニスタン民主共和国」とし初の社会主義政権が誕生します。

6・社会主義政権誕生からムジャヒディンによる社会主義政権打倒まで

1978 ・クーデターによりダウドとその家族殺害される
    ・国名を「アフガニスタン民主共和国」とし社会主義政権誕生
    ・各地でタラキ政権に対し反乱始まる
    ・タラキ、パルチャム派を追放
    ・「イスラム運動」が「イスラム協会」に改称
1979 ・アミン、タラキを倒し政権を奪う
    ・12月24日ソ連軍アフガニスタン侵攻開始
    ・27日ソ連軍カーブル攻撃、アミンを殺害しカルマル政権に
    ・オサマ義勇兵としてアフガンへ
1984 ・オサマ、アザムとともにアフガン義勇兵徴募機関「MAK」を創設
1986 ・カルマル議長解任、元秘密警察長官ナジブッラー政権に就く
1987 ・ナジブッラー大統領就任
1988 ・オサマ、アザムと対立し「アル・カイーダ」創設
    ・ジュネーブ和平協定
    ・ソ連軍アフガンより撤退開始
1989 ・アザム暗殺される
    ・ソ連撤退完了
    ・ジャララバードでムジャヒディーン政府軍に敗北
1990 ・イラク、クウェート侵攻
1991 ・オサマ、サウジからスーダンへ移住
    ・ソ連崩壊
1992 ・ソ連からの軍事援助停止
    ・ナジブッッラー辞任
    ・4月11日ムジャヒディーン、カーブル攻勢開始
    ・18日カーブル制圧
    ・5月6日ムジャヒディーンによる暫定政権発足

 流血クーデターにより樹立した社会主義政権ですが、最高指導者にはハルク派のタラキが就任し副議長兼副首相にパルチャム派のカルマル、副首相兼外相にハルク派のアミンが就任します。
 社会政権樹立後半年も経たない内に政権内部ではハルク派とパルチャム派の対立が再燃し、ハルク派のタラキとアミンはパルチャム派の閣僚を解任、追放し国民に人気のあったカルマルをチェコのプラハ大使として事実上追放しました。またパルチャム派の多くや反政府的な人達の多くが拘束され処刑されるに至り、こうした弾圧から逃れるため多くの軍人、政治家などの知識人はイラン、パキスタンヘ脱出します。
 また、タラキ政権の行った土地改革、支配階級の私有財産の没収、男女同権による女子教育などの社会主義的な政策はイスラム教に基づく伝統的部族社会には合う訳も無く政府に対する反感は国中に広がり、各地で部族による「ジハード」を宣言した蜂起が起こります。
 タラキの独裁体制による国内状勢の悪化は政権内で、ソ連信奉者であるタラキとユーゴのチトーを理想とする民族主義的なアミンとの間に亀裂が生まれ、タラキはイスラム主義者に接近し始めたアミンを排除すべくソ連と協力して1979年9月アミン暗殺を企てるが、それを察知したアミンは傷を負ったものの難を逃れ、国防省を掌握してタラキほかタラキ派の人々を排除し大統領に就きます。拘束されたタラキは後に暗殺されます。
 大統領に就いたアミンはアメリカとの接近を画策し始めますが、それを極度に嫌ったソ連はアミンの排除とともにアフガン侵攻を決めます。
 1979年クリスマスに総力11万人にも及ぶソ連軍のアフガン侵攻が始まりました。12月27日ソ連軍のカーブル攻撃が始まり、その日の午後にはKGB将校によりアミンは射殺されます。その日のうちにアミンの後継者としてカルマルが就いた事が宣言されます。この宣言で以前パルチャム派を弾圧したハルク派の軍人達は復讐を恐れ武器を手に逃亡を始めます。その数は数万人にものぼったようです。また粛清の嵐は軍だけでなく政府の職員など他の国民にも広がり、隣国へ逃れる難民の数はどんどん増していきました。
 ソ連軍侵攻後、圧倒的な兵力で主な都市は制圧したものの共産主義政権に対する抵抗は益々激しさを増します。アフアガン政府軍は脱走や粛清などで兵士の数が激減し組織として十分な機能をせず後方支援にしか使え無い状態であり、そのためソ連軍対反政府軍の戦いという図式で戦争が続いていきます。反政府勢力はソ連軍に対し“ジハード”を宣言し、イスラムへ対する異教徒の侵略者に対する戦いということで反政府軍の兵士達はムジャヒディーンと呼ばれるようになります。
 当初ソ連の兵力とは比べ物にならない貧弱な武器で戦うしか無かったムジャヒディーンはヘリなどの空からの攻撃を避け夜に移動し、地の利を生かしたゲリラ戦でソ連軍に立ち向かいます。それに対しゲリラと一般市民の区別がつかないソ連軍は虐殺とも云える無差別攻撃を繰り返しました。
 そんな状態の中パキスタンには300万人を越える難民が逃れていきました。こうして難民保有国で世界一となったパキスタンには西側各国から援助が集まり、同時にアフガン難民やムジャヒディーンに対しての援助もパキスタンを経由して渡されました。スンニ派のムジャヒディーン組織のほとんどはぺシャワールに本部を置きそこからアフガンでのソ連との戦いに向かいました。
 金や物資の援助の他にジハードを支援するために各イスラム国より多くのイスラム義勇兵がアフガンへやってきました。多くがアラブ人であったので彼らはアラブ・アフガニと呼ばれるようになります。オサマ・ビン・ラディンもその一人でした。富豪であった彼は巨額の援助も行い1984年にはパレスチナ人のムスリム同胞団の指導者アブダラー・アザムとともに義勇兵徴募機関「MAK」をぺシャワールに創設し世界各地にその事務所を設けます。1988年にはアザムとの対立が原因で独自にあの「アル・カーイダ」を創設しました。翌年アザムが暗殺された事でMAKの過激派はアル・カイーダに参加しその後MAKの各国の事務所はアル・カイーダのネットワークに利用されるようになります。
 ソ連との戦争も中盤をむかえる頃にはムジャヒディーンへの金や武器などの軍事的援助も増加して、制空権を握っていたソ連軍に対坑出来る長距離機関砲や地対空砲などが導入され、1986年にはアメリカがムジャヒディーンへの提供を決めたスティンガー・ミサイルの導入によって空からの攻撃への脅威は激減しました。
 徐々にムジャヒディーン側に流れが傾き始めた頃、ソ連国内では経済破綻まじかの深刻な状態で、膨大な軍事費は財政を圧迫し続けていました。そんな中1985年に書記長になったゴルバチョフは「ペレストロイカ」「グラスノスチ」を2本柱に経済、政治の改革を進めます。その一環として東欧諸国に駐屯しているソ連軍の引き上げを決定し、アフガニスタンに対しても膨大な軍事費、戦闘のための物資輸送にともなう道路や橋の建設費などの経済援助削減のためソ連軍の撤退を決めます。1985年12月にはカルマルの後政権に就いた秘密警察長官だったナジブッラーをモスクワに呼びその旨を伝えました。
 翌86年軍の一部の8000人を引き揚げ、1988年4月ジュネーブでムジャヒディーン側の代表者抜きで調印された和平協定に従い、1ヶ月後の5月15日より撤退を始めて翌年の1989年2月15日に一応撤退を終えます。
 おおかたの予想では撤退後すぐにナジブッラー政権は崩壊し反政府勢力が政権に就くと思われていたのですが1992年迄ナジブッラー政権は継続する事になります。というのもソ連軍はほとんどの武器を残したまま撤退し、軍を撤退した後も巨額の援助続けたためアフガン政府軍が息を吹き返し始め、それに加え共通の大敵がいなくなったムジャヒディーン側では各組織間で抗争が始まったために統一して政府軍に対する事が出来なかったからです。
 しかし1991年12月ソ連の崩壊によりソ連からの援助が停止し、西側からの援助を受け続けるムジャヒディーンに対抗できない事を悟ったナジブッラーは1992年4月に大統領を辞任します。こうしてアフガニスタンの社会主義政権は終焉を迎えました。
 ナジブッラー政権崩壊後ムジャヒディーン組織は首都カーブルへ向け北からはタジク人主体のイスラム協会のマスード部隊、ナジブッラー政権崩壊前にムジャヒディーン側に寝返っていたウズベク人のドスタム将軍率いる部隊が進軍、南からはイスラム党のヘクマティアル派が、東からはイスラム党ハリリ派が進軍しました。最初にカーブルへ入ったマスードは政府と停戦合意し25日ムジャヒディーン組織による暫定評議会が政権を掌握します。

7・再び内戦、タリバーン登場から崩壊、そしてアフガン新政権へ

1992 ・暫定政府発足
    ・同5月ヘクマチアル派カーブル砲撃開始
    ・タリバーン活動開始
1993 ・ラバニ、大統領就任
1994 ・パキスタン、元義勇兵アラブ・アフガンを国外追放
    ・タリバーン軍事行動開始
    ・11月タリバーン、カンダハールを支配
1995 ・9月タリバーン、ヘラート制圧
1996 ・オサマ、スーダンを追放され再びアフガンへ
    ・タリバーン、カーブル制圧
      〜ナジブッラー処刑される
1997 ・北部同盟結成
1998 ・タリバーン、マザリシャリフ制圧、イラン人外交官殺害
    ・米国、米大使館同時爆破テロへの報復でアフガンとスーダンをミサイル攻撃
2001 ・3月バーミヤンの巨大石仏破壊
    ・9月8日マスード暗殺される
    ・9月11日アメリカ同時テロ
    ・10月7日米英軍アフガニスタン空爆開始
    ・11月9日北部同盟マザリシャリフ制圧
    ・11月13日北部同盟カーブル奪取
    ・12月5日ボン協定調印
    ・12月22日暫定政府発足
2002  ・ロヤジルガによりアフガニスタン・イスラム移行政府の大統領に選出される
2003  ・NATO軍が安全保障のため各地に配備される
    ・憲法制定のためのロヤジルガ開催
2004  ・新憲法採択
    ・大統領選でカルザイ勝利

 暫定政府ができたものの5月にヘクマティアルが異を唱えたことから暫定政府に亀裂が走り再び内戦に向かう事になります。最初ヘクマティアルとドスタムは争いますが、後にこの二人は手を組み暫定政府に対抗します。カーブルでは原理主義集団のイスラム統一体とハザラ人のシーア派統一党の戦闘が起こります。各組織間の戦闘が続く中1993年1月にイスラム協会のタジク人ラバニが大統領に就くとパシュトゥーン人のイスラム党他反対派によるカーブル攻撃は激化していきます。
 この様に混乱が続く中でかつての聖戦士達は山賊、盗賊化し、各組織での分裂も起こり司令官を頭領に軍閥化していき、激しい利権争いが繰り広げられ国内の混乱は益々酷くなり再び難民が増加していきます。
 そんな中パシュトゥーン人を主体としたイスラム原理主義勢力タリバーンが形成され1994年に起こした軍事行動を皮切りに各地でムジャヒディーン勢力と戦い支配地域を拡大していきます。95年にはアフガン西部を制圧し、96年にはカーブルへ侵攻します。野盗と化したムジャヒディーン達の無法ぶりに辟易していた人達は期待を持ってタリバーンを迎えるのですが、タリバーンがカーブルに入るとすぐ国連の建物で保護されていたナジブッラー元大統領を殺害し死体をみせしめのために道路に吊るします。ここからタリバーンによる恐怖政治が始まります。
 タリバーンはまず厳しい罰則のもと公開処刑を始め、女性の外出、労働、教育を禁止し、テレビとラジオの放送禁止、映画や音楽の禁止などの他、子供の凧あげまで禁止しました。
 タリバーンはカーブルを制圧した後、アフガンの大部分を制圧するものの、北部ではカーブルを逃れたラバニ、マスードがハザラ人の統一党、ウズベク人ドスタム派と手を結び「北部連合」を結成し抵抗を続け、ヘラートではイスマイル・ハーン率いる部隊が抵抗を続けます。
 そんな中ソ連軍撤退後の内戦に嫌気がさしアフガンをはなれていたオサマ・ビン・ラディンが1996年スーダンを追われアフガンに戻って来ました。
 アフガンを離れサウジに戻ったオサマは、1991年の湾岸戦争時に米軍の駐留を許し米を支持したサウド王家を激しく非難したため国外追放されスーダンへ移住します。オサマはアフガニスタンを出てからも元アフガン義勇兵アラブ・アフガンとの連絡を密にし、各国のテロ組織とのネットワークを確立しつつありました。スーダンではオサマは各地へ散っていたアラブ・アフガニを集め各国のイスラム原理主義反政府活動を支援します。
 その頃アメリカはテロ支援国家のリストを作成してそれらの国々に圧力を加え始めます。それを受けパキスタンは国内のアラブ・アフガニの追放を決め、追われたアラブ・アフガニはアフガニスタンへ逃れます。スーダン政府も国際的な孤立を避けるためオサマの追放を決定しオサマもまたアフガニスタンへ逃れます。
 1996年アフガニスタンへ逃れたオサマはアラブ・アフガニたちと合流しタリバーンの庇護のもとこの年の8月アメリカへの宣戦布告を発表し1998年には米国に対するジハードを宣告します。
 当初アメリカは敵対するイランをタリバーンもまた敵視していたためイランの封じ込めに利用できるとみた事と、トルクメニスタンの天然ガスをアフガン経由でパキスタンの港から積み出すパイプライン計画の動きからタリバーンへ接触した。しかし、オサマがアフガンに逃れた1996年の後半頃から米国内でタリバーンの女性差別、非人道的政策に対する批判が強まり、1998年に起きたナイロビとダルエスサラームの米国大使館同時爆弾テロをオサマとアル・カイーダの犯行と断定しアフガンとスーダンのアル・カイーダの拠点にミサイル攻撃を行いました。
 1999年タリバーンに対し国連はオサマの身柄引き渡しを要求するが、それを拒否したタリバーンに対して11月経済制裁を発動し、飛行機の離着陸の全面禁止、タリバーンの海外資産の凍結などがなされました。
 2001年世界的に孤立が深まる中タリバーンは北部同盟からバーミアンを奪取し巨大石仏を爆破してしまいます。9月8日にはアル・カイーダの犯行と見られるテロにより北部同盟司令官アフマド・シャー・マスードが暗殺されます。
 そして9月11日には米国同時多発テロが起こります。
 米国は19日にはアル・カイーダの犯行と断定しタリバーンをも共犯者と見なし、タリバーンに対しオサマの即時身柄引き渡し等を要求するのですがタリバーンがそれを拒否したため、10月7日米国はアフガン空爆を開始します。
 空爆開始前から米国は北部同盟への支援協力を進め、空爆後米軍と連携しながら北部同盟は南下を始め次々に支配地域を拡げてゆき、11月9日にマザリシャリフを制圧し13日にはカーブルを制圧します。タリバーンは南部のカンダハールに集結しますが12月7日にカンダハールを明け渡しここにタリバーン政権は壊滅します。
 11月27日暫定内閣発足のためアフガン各主要勢力と関係諸国がドイツのボンに集まり国連主導のもと政治協議が開催され、かなり難航したものの新政権樹立のための和平プロセスに関する協定案が調印されました。
 12月22日にはカーブルにハミッド・カルザイを議長に暫定政府が発足します。
 2003年6月緊急ロヤジルガが開催されアフガニスタン・イスラム移行政権が発足されカルザイは大統領に選出されました。
 12月には憲法制定のロヤジルガが開催され翌04年1月新憲法が採択され10月から行われた大統領選挙でカルザイが勝利し新憲法のもとアフガニスタン・イスラム共和国の初代大統領に就任しました。